NZTAKMANのブログ

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岐阜市加納地区

■岐阜市駅の南部周辺。

加納という地名が定着している。古くからあるような整備された地域で、歴史の感じる場所。

現在は富裕層が住む閑静な住宅街?というイメージ。土地は狭めでステータスと安心感を感じる地域。江戸時代の町屋、宿場町の名残から密集したレイアウト。


■中山道(なかせんどう)
:三条大橋⇒日本橋。京都から信濃を経由して武蔵などの東国を結ぶ街道。1600年、関ヶ原の戦いで天下をとった徳川家康が天下統一を図る需要な手段として、戦乱で荒れた全国の道の整備にとりかかった。約534km、69宿あり。峠道が多く、人馬の往来は困難だった。

中山道の役割・目的参勤交代、茶壷道中(=ちゃつぼどうちゅう、将軍御用の宇治茶を江戸まで運ぶ行事)、皇女・和宮(こうじょ・かずのみや=仁孝天皇の第八皇女で、幕府との関係を維持するために江戸の14代将軍徳川家茂へ降嫁した。中にはこの縁談を良く思わない勢力から守るために、より安全な中山道を通って御輿入れされた。太田宿で27日宿泊した記録あり。)など。

■加納藩:

江戸時代に岐阜県岐阜市の加納を本拠地にして、美濃国中部を領土としていた藩のこと。

藩庁は加納城。藩主は奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)。徳川家康の長女、亀姫を正室をする。


■加納地区の歴史:

江戸時代の加納藩の城下町。中山道の宿場町と栄えた。関ヶ原の戦い後、徳川家康はこの地に着目し、奥平(おくだいら)氏10万石の居城として加納の旧城を修築させ江戸幕府の軍事的拠点とした。しかし、その役割は次第に衰え、和傘の内職に頼らなければならず、現在も伝統芸品として受け継がれている。


■なぜ和傘が発展したか?
武士の内職×分業体制×美濃和紙×良質な竹×水運による販売ネットワーク(=長良川・荒田川を使って、伊勢湾の桑名に出て、江戸や大阪などの大消費地へ販売できた)全国シェア9割。

 

1756年~加納藩主の永井直陳列は下級武士の生計を助けるために和傘づくりを奨励した。

分業体制の確立と、美濃和紙の産地が近く良質な和紙が手に入ったこと、また周辺の山間地で良質な竹が採取できることもあり加納で和傘づくりが栄えた。

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参照:

https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html

http://www.kisoji.com/kisoji/feature/shukuba.html

https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E7%B4%8D-45984

https://www.nakasendo.gifu.jp/about/

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000194576

https://kaikan.ootajuku.net/history/kazunomiya

https://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/