孫文1866-1925
■孫文とは?
青年時代を海外で過ごした国際派。理想の国づくりに燃え、多くの日本人が支援した。中国でも台湾でも『国父』として尊敬されている人物。反君主主義。革命家、民主主義運動家。
中華民国の父。『民族』『民主』『民生』の『三民主義』を唱えた。西洋の民主主義をふまえつつ、長年続いた封建体制や列強による半植民地支配からの脱却を目指す。
政治理念:海外の強国を参考にした最新の政治システムを持った国作りを目指す。
王朝国家や伝統的なやり方では国は発展しない。⇒新しいやり方で超大国を目指す。
『博愛⇒すべての人を平等に愛すること』
1866年-1925年中華民国の政治家。革命家、医者。広東省生まれ。
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海外へ。西洋の教育に触れる。
■1878年(12歳):兄を頼ってハワイへ。現地のハイスクールを卒業、その後香港にわたり医学を学んだ。
■1885年(19歳):家族同士の縁談で、ホノルル育ちの盧慕貞(ろ・ぼてい18歳)と結婚。一男二女を儲けるが、忙しい孫文と一緒に暮らすことはほとんどなかった。
■1892年(26歳):香港大学で医学部、博士号を取得。
■1894年(28歳):ハワイで、反清朝の革命秘密結社を組織。
広州で武装蜂起(ぶそうほうき、支配勢力に対して反対行動)するが、失敗。日本に亡命する。同郷出身の横浜は華僑が多く都合がよかった。そこで知り合った華僑の貿易商の温炳臣(おん・ぺいしん)が孫文の世話人となり、彼の家に身を寄せた。1899年、一方で大月一家は横浜の自宅が火事で全焼し、父親の知人だった温氏の家に避難先として間借りすることになった(2階)。孫文と大月薫は、知り合うようになる。
■1902年(36歳):日本人妻、大月薫(16歳)さんと結婚。横浜で活動。
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■1911年(45歳):世界各地を訪問後、辛亥革命を起こす。中華民国を建国、大総統となるが、袁世凱がその座に就き、日本へ亡命。
■1915年(大正4年50歳):宋慶齢と日本で結婚。広東政府、中国国民党を結成。
※広東政府:北京の袁世凱による皇帝政権(軍閥政治)に対抗して、広東省広州に樹立した地方政権。
■1925年(大正14年60歳):死去
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■日本との関り:
宮崎滔天(みやざき・とうてん1871-1922)熊本県出身の自由民権運動家。執筆家。日本や中国にいる革命派を結びつけた。辛亥革命支援者。
孫文は日本から明治維新の思想に影響、資金援助を受ける。宮崎氏は、犬養毅など有名政治家に孫文を紹介する。孫文の日本名『中山樵(きこり)』。革命団体『中国同盟会』を結成。
■アジアが欧米列強の侵略を跳ね返すには中国が強い国家に生まれかわらなければならない。(宮崎氏)『中国大陸での利権』や『日本の膨張』目的ではなく、アジアの繁栄、対欧米諸国。安定した独立国家づくりのため。
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その後の歴史。
■太平洋戦争(1941-1945)が勃発し、日中が敵対国に。大月薫さんも、知人も娘の父親が孫文とは言えなかった。
参照:
https://hamarepo.com/story.php?story_id=4283
https://www.asahi.com/international/history/chapter04/01.html