NZTAKMANのブログ

30代。政治経済/社会/異文化/筋トレ/チームマネジメント

豊臣秀吉(1537-1598)

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尾張国の農民の家に生まれる。戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。

初代武家関白。日本一の出世男、太閤。ニックネーム:サル

領主の信長は、自身の評判が悪く人材不足で身分に問わず広く人材を集めていた。そこに秀吉が士官することになる(=大名に仕えること)。謀反の浅井長政にから、信長を守り、明智光秀などと協力し、手柄(武功)を立て信頼を勝ち取る。太閤とは、摂関や関白の位を譲った人。1585年に関白に就任した秀吉は、1591年に甥の秀次に職を譲り、『太閤』と呼ばれるようになった。 

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■人柄・リーダーシップ 柔が剛を制する

年貢(税収)、反発(反対勢力)、分業制(軍力と農業力)のマネジメントに優れている。

抜け目なき策略家:下駄話・六本指・サル顔・低身長で貧弱な体つき・品位に欠ける・野心

趣味:茶道・浮気癖派手好き(自己顕示欲が強く、反発を抑制するためでもある⇒農民出身コンプレックス?)、叩き上げ

■経済・公共政策

検地刀狩・兵農分離・朝鮮出兵(講和・失敗)金山銀山を直轄地にする。

南蛮貿易・キリスト教の弾圧(布教師の処刑)

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■人を操る秀吉の強み■ 柔が剛を制する。VS(信長=剛が何に克つ)

・人たらし:人心掌握術、人をうまく味方につける才能。なぜか?自前の家臣人脈がなかったので、多くの優秀な人材とコネを作る必要があったから。無闇に戦わず、相手と交渉し、犠牲者を抑えて、勢力を拡大していくやり方。洞察力が鋭くなり、優秀な家臣を側近として重用した。例:黒田官兵衛、竹中半兵衛、石田三成など。

■上司が苦しい時に頑張り、成果をアピール。

⇒上司が困っている時に、率先して困難な仕事を引き受ける。献身的な行為、実績が上司の心をつかむ。ピンチをチャンスに変える努力をする。

■部下のミスを責めない。⇒小牧・長久手の叩きで、秀吉陣の九鬼嘉隆が撃退されたにもかかわらず、叱責せずに帰還できたことを認めてくれた。嘉隆は秀吉により忠誠を尽くすようになった。

■接待攻勢⇒1588年。(秀吉を警戒していた)毛利輝元に京都大阪を案内し、有名人が集う『社交界』へ招待し、手厚くサービスした。⇒輝元は、これを満喫し秀吉に服従するようになる。

■イメージ戦略で好感度を上げる

京都で大イベントの北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を開き、身分に関係なく参加できる茶会を開き、秀吉の権威と好感度アップを世間に広めた。

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■カネにものを言わせて大盤振る舞いする

豊富な金銀を皇族や諸大名に分配し、秀吉政権の忠誠心を支えた。(主要金山は、佐渡(さどー新潟)生野―兵庫、石見―いわみ島根など)

 

・兵糧(ひょうりょう)攻め:時間をかえて敵を確実に倒し、味方の勢力を温存する。

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■3つのエピソード

 

1)農民から天下人:若い頃は苦労する(農民、商人、ホームレスも経験)。人をたくさん探していた領主の信長の元へ働くようになる。金ヶ崎の退き口⇒信長は、朝倉義景(福井)と浅井長政(岐阜)に挟まれ、ピンチとなる。秀吉は、手柄を挙げるために、命がけで信長を逃げさせる。主君から信頼を勝ち取る。山崎の戦い(vs 明智光秀)で光秀に討つ。+賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで、農民出身の秀吉の天下に納得していない柴田勝家を討つ。その後、九州、四国、東北、関東へと領地を広げ、1590年(53歳)に天下を統一。

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2)太閤検地と刀狩令

検地(=米の生産量の測量調査):田んぼや畑の面積やランク、米の取れ高、生産者は誰かを検地帳に書かせて、全国の土地を同じ基準の石高(こくだか=米の生産量)で管理することができた。地域ごとの異なった土地の価値を米の生産量で統一。⇒太閤検地と呼ぶ。年貢の基準、責任者、量をより明確にさせ、税収を安定させた。

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刀狩(1585年):武器(刀ややりなど)を取り上げた。建前は、大仏を創るためであったが、実際は農業に専念させ、農民の反乱を抑制させるため。

兵農分離:武士と農民の身分をはっきりと区別させた。武士は城下町に住ませ、農民は村に住ませた。江戸時代の士農工商の前身となる。狙い:戦いと農業を分業させ、常備軍を確保でき、かつ年貢の生産量を安定させること。それ以前は、農民が戦いにも参加し、兼業であり、穀物の収穫期は戦は避けていた。この身分と役割を分業にすることで、武士は訓練に、農民は農業に専念させることに成功した。

 

3)アジア制服の野望:

明(中国)も制服しようとした。まずは、道案内の拠点として朝鮮を征服するために、佐賀県に城を築き(佐賀城)+名護屋城(なごやー唐津)、約16万人の兵が朝鮮を攻める。⇒決着つかず。1598年、秀吉が亡くなったのがきっかけで、朝鮮から兵を引き上げる。

 

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■秀吉の迷走

秀吉は晩年、秀頼一族を処刑、朝鮮出兵など政権が不安定となる。秀吉の没後17年で豊臣家は滅んでいる。

また幼い秀頼を溺愛し、将来の豊臣家の繁栄を案じていた。

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城歴:長浜城(滋賀1573)、姫路城(姫路)、伏見城(京都)大阪城(1583)

 

■辞世の句(1598年 62歳):

『露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢』

【私の身は露のように生まれ出て、露のように消えていく。私の一生に起こった全てがまるで

夢の中でまた夢をみているような、そんな出来事だった。】※なにわのこと=掛詞で『何もかも』の意味。

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参照:

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310075_00000

https://blog.goo.ne.jp/syaraku0812/e/221ee9094a3a858fe0810930e6df4bf3

https://study-z.net/100051721

https://www.youtube.com/watch?v=WMpEflDI8

https://www.youtube.com/watch?v=37q13LLB2jI

https://www.youtube.com/watch?v=zEegAku-ZB4

https://www.youtube.com/watch?v=ruy5kLeiNfQ

https://rekishiru.site/archives/7467

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4760

https://toyokeizai.net/articles/-/136862